圓勝寺へようこそ

圓勝寺の沿革

圓勝寺は、今から約四百年前の戦国時代、古津神浦城の城主であった篠原肥前守自遁の三男右近が開基したと伝えられています。

篠原肥前守自遁は、阿波の戦国大名三好氏の家臣であり、三好三人衆の一人、篠原長房の実弟と言われています。

織田信長と戦っていた石山本願寺の顕如上人は篠原長房を重視し、永禄二年(1559年)、蓮如上人の孫娘(富田教行寺実誓の娘)を嫁がせています。(顕如上人『私心記』永禄二年六月八日「富田息女、阿波篠原所ヘヨメ入也。悉皆是ヨリサセラレ候。△福島マデ御送候。屋クラヘ行見物候。」)

石山本願寺の顕如上人と織田軍との戦いは激しくなりましたが、元亀元年(1570年)10月1日、篠原一族が軍勢3万を送り加勢したことで、本願寺は当座の危機を脱することが出来ました。(本願寺史第一巻592頁)「篠原長房等、本願寺救援のために摂津中島に着く(顕如文案)」(本願寺年表105頁)

その後四国内での勢力争いが激化し、相次ぐ戦によって一族が戦死、離散していく姿をみた右近は、世の無常を嘆き、顕如上人の元に訪れ得度を受け、浄土真宗の門下となります。

当地に帰った右近は、名を釋正秀と改め、元の家臣達を浄土真宗に教化し、文禄元年(1592年)12月家臣たちと共に姫田村の西辺に圓勝寺を建立し、現在まで法灯が受け継がれています。

第三世住職善正師の時、寛文十一亥年(1671年)火災に会い凡てを焼失 其後、当山中興の祖と云われる第七世住職梅隆師は元文四年(1739年)に現在の地に移り本堂を再建しました。

第十世住職釋勇勤師は天保十己亥年(1839年)大豊作を機とし梵鐘の再鋳資金を募り、僅か一ヶ月にしてその浄財を得、同年十月申子の日堀久左ヱ門光寛に命じ鋳造に着手しました。

(以上天保十一年初冬下旬第十世住職釋勇勤師の誌に依る)

安政二年(1855年)には寺子屋を開校し、 明治に入って尋常小学校(現在の鳴門市立堀江北小学校)ができるまでの間、地域の児童教育の場として親しまれてきました。

特に、第十一世住職釋日雲師は、学林(現在の龍谷大学の前身)で13年間学び、京都の最新の知識を徳島に伝える大きな役割を果たしていたと考えられております。

第十二世住職釋隆勤師は、明治三十五年(1902年)七間四面の本堂屋根瓦が崩れたため、明治三十八年(1905年)に元の木材を使用し、五間四面に縮小した本堂に改築しました。

大正八年(1919年)鐘楼を再建しましたが、 昭和十九年(1944年)十二月大東亜戦争の為供出の止むなきに至りました。

第十四世住職釋善雄師は、昭和三十乙未年(1955年)未曾有の大豊作を迎え、総代世話人の梵鐘再鋳提唱に門信徒双手を上げて賛成。翌昭和三十一申年(1956年)高松市松島町多田数衛に命じて再鋳に着手しました。

また、明治三十八年に改築した本堂は、元の木材を使用していたことから老朽化が進み、総代世話人とともに改築奉賛会を結成し、昭和六十三閏戊辰年(1988年)十一月 総工費一億三千万円超をかけ本堂、山門、書院を新築しました。

第十五世住職(現住職)釋彰憲は、平成十四年十月、庫裏を新築。平成三十一年三月、納骨堂を新築しました。

歴代住職

初 代  釋正秀  寛永元年(1624年)3月19日寂

二 世  釋円照  慶安元年(1648年)3月19日寂

三 世  釋善正  延宝二年(1674年)7月14日寂

四 世  釋善宗  天和元年(1681年)6月19日寂

五 世  釋諸善  宝永六年(1709年)11月16日寂

六 世  釋善正  享保二年(1717年)7月10日寂

七 世  釋梅隆  天明七年(1787年)9月1日寂

八 世  釋勧導  文政十一年(1828年)3月4日寂

九 世  釋円乗  天保 六年(1835年)8月13日寂

十 世  釋勇勤  明治十三年(1880年)9月29日寂

十一世  釋日雲  明治二十三年(1890年)11月18日寂

十二世  釋隆勤  昭和十三年(1938年)10月3日寂

十三世  釋善隆  昭和十七年(1942年)1月13日寂

十四世  釋善雄  平成二十四年(2012年)3月24日寂

十五世  釋彰憲  現住職

十六世  釋隆佑  後住